読書メモ

野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫 ノ 3-1) 』を読む

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Amazonリンク:ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫 ノ 3-1)

考察

 ある事実が真である、とは何を意味するのか。
 それについて考えよう。まず、ここに「現実」がある。また、ここに、「記載された事実」(a.k.a. 「文」「命題」)がある。(事実は「記載された」事実である必要があり、それ以外のものはここでは考えない。また、実用上、考える必要もないと思われる。「記載された事実」も「現実」の中に物質的実体としてある(典型的には黒いインクが点々と染み付いた白い紙)のだが、それは今深く考えなくて良い。色即是空のひとつの解釈である。)
 あるひとつの「記載された事実」は、実物理世界上で発生する何らかの事態の集合と関連づけられる(「記載された事実」を、厳密にたった一つの事態と関連づけることは不可能である。世界全体を厳密に記述するためには全世界そのものと全く同じ情報量が必要であるため。)。「現実」をチェックして、それが「記載された事実」と関連付けられた事態の集合(=S)に含まれているのであれば、「記載された事実」は「真」であるのである。 (つまり、あるひとつの「記載された事実」は、その言語によって想定可能であるような起こり得るすべての事態の集合の、あるひとつの部分集合と関連付けられる。)
 「現実」をチェックして、それが「記載された事実」と関連付けられる事態の集合に含まれているのであれば、「記載された事実」は「真」であるのである。

 理解を深めるために、実際に有用であると思われる刑法上の例をとりあげて考えてみよう。

A. 「甲は乙に名誉毀損を行った。」

B. 「甲は2025年12月15日、お寺の掲示板に『乙は◯月◯日、〈生臭坊主め〉などと甲に向かって言い向け、正法を誹謗した仏敵である。討つべし。』と記載された書面一枚を掲示し、12月22日に撤去した。」

C.「乙は◯月◯日、〈生臭坊主め〉などと甲に向かって言い向けた。」

D. 「甲は、殺し、盗み、嘘をつき、詐欺をはたらき、騙し、役に立たない学習をし、他人の妻と交わることを実際に繰り返し行っている生臭坊主である。」

D'.「甲は、殺し、盗み、詐欺をはたらき、他人の妻と交わることはしないのであるが、役に立たない学習をし、嘘をつき、騙し、酒を飲むチョットだけ生臭坊主である。」

D'-1. 「甲はたまに飲酒してご機嫌になる。」

D'-2. 「甲は週に何度も飲酒して勤行を怠け、法事で過ち、修行で遅れを取っている。」

D'-3. 「甲は毎日出勤すべき職場によく二日酔いで現れる。」


 上のものはいずれも「記載された事実」である。日本語によって想定され得る事態であることは実際に記載されていることから明らかである。 しかし、A.~D.と関連づけられる事態の集合はそれぞれ異なる。順に[A]、[B]、[C]、[D]とする。また、「現実」をチェックして、引数である集合が含まれるかどうかを判定する関数をf(x)とする。
 その場合に、事実A.が真であるとは何を意味するのか。
 それをチェックするためには、B, C, Dが真であるかどうかをチェックしなければならない。
if f([B]) AND f([]) ・・・(関数の構成は読者への課題とする)

then f([A]) = TRUE

である。
 このようにして、「記載された事実」が真であるかどうかをチェックすることを行なっているわけである。
 ちなみに、「物体の運動はニュートンの運動方程式に従う」(Neq)も「記載された事実」である。Neqの十分条件(もしくは「系、コロラリー」)であるような「記載された事実」を用いて、物体の運動を予測することは広く行われており、このような予測が偽となることは誰も予想しない。こうした「記載された事実」はwell-known factなどと呼ばれる。
 *本書には概ねこのようなことが書かれている。例は異なる。  
【余談】
それでは、仏典(たとえば、スッタニパータ)に記載された命令(それが真となるような「現実」をあなた自身が行動することで実現すべき「記載された事実」)は、どう考えればよいのだろうか。
スッタニパータ「犀の角」の章には相互に矛盾する次のような命令が記載されている。
「37 友人や仲間を思いやったりすると、心が絆され、自分の目的を失う。親しみというものにはそのような危険が伴うのを見て、犀の一角のようにただ独りで歩め。」
「45 熱心で、心が堅固で、あらゆる危険に打ち勝とうとする友人を得たならば、心弾ませ、意識の覚めた状態を保ちながら、彼とともに歩め」 (今枝 由郎. スッタニパータ~ブッダの言葉~ (光文社古典新訳文庫) Kindle Edition.)
 これはブッダが相手の置かれた状況に即して助言として与えた言葉を書き留めたものであることを思い起こせば、より一般的な命令である「記載された事実」の十分条件(系・コロラリー)なのだと納得できるだろう。
","","","2025-12-19 11:55:19","2016-08-18 00:00:00","ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む","野矢茂樹","筑摩書房","2006","本",""


アンドレイ・マーモー『現代法哲学入門 (基礎法学翻訳叢書)』, 勁草書房, 2023.を読む

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考察

【法とは何か】著者マーモーは、ハート(『法の概念』)の他に、ハンス・ケルゼン、ジョン・オースティンらの著作を参照しながら考察する。 1.オースティンは法は「政治的主権者の命令である」とした。 2.ケルゼンは「どんな法も公務員に対する命令であり、『条件C1~Ci~Cnが満たされた場合、結果Xを実現させるべく、Yに対して実力を行使せよ』という形態をとる」とした。(我々の定義「法とは、それが真となったと政府が十分に確からしいく革新した時に暴力装置を作動するprescribed factsである」と似ているが、完全に同じではない。) ここで、著者は、ケルゼンが述べる公務員による実力行使の威嚇がどれほど法を法たらしめているのか?について、ジョゼフ・ラズの「天使のたとえ」を引用して疑問を投げかける。この例えについて、よくわからなかったのだが、どうやら著者は、囚人のジレンマのように誰一人に対しても抜け駆けを許さないことが全体ひいては各参加者の最大利益につながるような場合には強制力を行使すべきだが、そうでない場合には強制力用いない合議によって問題の解決を図ることができる、というようなことを述べている。私見だが、どうも著者は法について誤解をしているようである。囚人のジレンマのような調整ゲームを考えたとき、法の役割は「各プレイヤーにとある選択をすることを強制する」ことではなく、「各プレイヤーがどんな選択をすることができるのか、いつ選択ができるのか、何回選択ができるのか」等のルールそのものである。もっとも、ルールとして「各プレイヤーはこんな場合にはこの選択をする」というものを足すことは可能である。

【法命令説と法の規範性について】 著者マーモーは、ケルゼンの法の定義はすべて公務員に向けた命令であるため、法規範として作用するのが公務員に対してのみである、というようなことを述べているが、これは誤りであろう。明示的には法を「命令」と記載してしまったために本質が隠蔽されているが、法は命令された公務員に対しても実力行使の威嚇によって恭順を要求するのである。実力行使を命ぜられた公務員が命令に反抗した場合には、別の公務員が出てきて反抗した公務員に対して実力行使を行うことで、法が守られる。同様に、条件Ciに記載されたその民衆の一人は、実力行使されることを回避するべく条件Ciを満たさないように行動するであろうから、条件 Ciは規範性を持つのである。それゆえ条件Ciは法なのである。(それゆえ、オースティンの法の定義は我々の定義のコロラリーとして把握される。)

【法と解釈について】 法のなかには、具体的かつ解釈余地のないものと、一般的・曖昧で解釈の余地が多々あるものがあるため、司法裁量が行われることが問題視されると著者マーモーが述べている。しかし、哲学者のなかには、その曖昧さは程度の違いでしかないと考えているものもいるらしい。私としては、その哲学者にまったく同感である。我々の定義では、法とはprescribed factである。つまり、実物理世界上の ある事態を言語化によって抽象化したものである。日本語では要件事実という、とあるレベルの抽象化によってある事態を言語化したという性質の「記載された事実」があるが、それよりも抽象度の低い「事実の記載」はいくらでも可能である。(全ての言語化は抽象化であり、「具体的な」事実の記載というものは本来不可能である。可能であるのは「この記載された事実よりも具体的な(抽象度の低い)レベルでの事実の記載」のみである。)同様に、法となる、もしくは条件 Ciであるような事実をどんな抽象度で記載することも可能である。それが道徳的判断を交えて解釈されるような事実であることは妨げることは不可能である。 このとき明らかになるのは、「条件Ciが満たされている」の判断にどんなレベルの解釈の余地も入るということである。司法裁量について著者マーモーが言っているように、裁判官に限らずどんなレベルの公務員でも、一定の推量を行うことは避けられないのは当然である。

【原公開】","","","2025-11-08 21:57:47","2025-11-08 21:57:47","現代法哲学入門 (基礎法学翻訳叢書)","アンドレイ・マーモー","勁草書房","2023","本","256"


E. フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)』を読む

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考察

近代科学の方法を受け入れた近代人の思考様式を説明したものである。いまだに物理学の方法論をより幅広い対象に適用することで成果を出す(データサイエンス)ことが近年新発見的に行われており、われわれは未だにフッサールの研究プログラムの中で生きているとも言える。

 フッサールによれば、理性ある近代人は以下のような手順で知覚し、判断し、考究する。

  1. 世界における諸事象を人間が観測できるのは、本人の生活世界で行われる本人の知覚を通じてのみである。
  2. それぞれの知覚は、判断中止をもって受け入れられなければならない。
  3. ヨーロッパ近代科学は、数学的・幾何学的方法(超越論的方法)によって世界をよりよく理解する方法(物理学)を手に入れるにいたった。
  4. そのそれぞれの科学は、人それぞれの生活世界における知覚において合致することが同意され、妥当性の検証が近代人の共通感覚として受け入れられることによって確立したものである。
  5. よって、近代的人間は、本人の生活世界での知覚を判断中止によって受け入れる(現象学)ことに加え、数学的・幾何学的方法を内心的に用いること(超越論)によって、超越論的現象学的に現実を理解するのである。

 フッサールが当時どんな歴史的事実を参照したのかが謎であり、当時そこまで一般化することが妥当だったのかが不明ではあるのだが、難解さの批難を恐れず一般的・抽象的な記述化に拘泥することによって、フッサールは将来きたるべきデータサイエンスを予言することに成功した。

 つまり、フッサールは賭けをして、そしてそれに勝ったのだ。

Originally published on ","","","2025-09-23 16:47:18","2025-09-23 16:47:18","ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)","細谷恒夫","中央公論社","1995","本","560"

レオ・シュトラウス『自然権と歴史 (ちくま学芸文庫)』の感想

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考察

奇妙な叙述が延々と続く奇妙な著作で、眠れぬ夜の煩悶のような著述が延々と続き、5章の途中で突然明晰な判断が始まり、5章が終わる前にまた煩悶が始まる。著者は一体どうしたことなのだろうか。

その5章後半ではロックの思想が語られる。私の理解によれば、自然権とは、結局、なしうることはなしてもよい、である。物理法則に反することは当然することはできないのであるから、究極的に唯一強制的に人を拘束するもの、アメリカにおける初期のイギリス植民地のエリートが痛感した様子であるところの自然法がこれである。ちなみに、仏教でいうところの「無為法(誰が決めたわけでもないがその通り法であるもの)」に該当すると思われる。

一方で、物理法則には反しないものの、そんなことはしない方が絶対によい、という行動もある。例えば、生まれたばかりの赤ん坊を捻り潰して食ってしまうようなことは、成人男性であれば通常わけもなく可能である。ところが、そんなことをしてしまうと良くないことが後々にか、即座にか、起こる(仏教でいうところの縁起の法に従って)。そのため、そんなことをするような人間はみんなで捻り潰してしまおう、と決め事をするわけである。そして、子供にもそんなことをしてはいけないよ、と代々教えていくわけである。これが社会契約であり、仏教で言うところの「有為法(誰かが決めたことで法となったもの)」である。そのような社会契約の最たるものが「領域内の暴力を政府に独占させること」であり、そうした方がいいことの根拠は、政府を持つ人間の集団は豊かで清潔で長生きであるが、政府を持たない人間の集団は貧困で不潔で短命に終わることである。

まあそんなことは当たり前の話であって、ロックの本論は、労働が生み出したものが誰に帰属するのか、というところにある。自然状態においては、人が本当に所有しているのは自分自身の身柄、および、自己の労働によって成立せしめた成果物のみである。大地に自然になっている木の実を摘んできた木の実の所有権が、自然にその摘んだ人に帰属すること、それが大事なポイントである。そこに契約によって割り引いたり付け加えたりするわけである。

もうひとつ大事なことは、著者がロックを引用して述べる「罪になること」とは、何か巨大なものを占有したことではなく、その「所持物の何かを無益に滅失させる」ことであると述べていることである。現代日本で最も無益に占有されているものは労働時間である。生活収入を労働に依存する賃金労働者にとっては、社会保険料・税金で収入を圧迫されることは時間を強奪されていることに等しい。その時間があれば本が読めた、得た知識を試せた、職務上・生活上の技術知識を向上させ、よりよい生活を送ることができた時間を強制的に強奪されていることは、ロックら自由主義思想家であれば、専制国家の圧政と言うものであるだろう。このようなことが正当化されるのは、社会の分業化が全社会の効率性を高めるという経済学的事実が成り立っている場合である。二者の信頼関係に基づいて、ひとりは目の前の職務に集中する、もうひとりは知識を探求して知見を適用する、その分業が機能しているのであれば、win-winの関係が成立して、正当化される。 ちなみに、日本医学(・法学)のコミュニティ(のようなものが未だ存在するのであれば)の怠慢については私は明確に論証する用意がある。他者の賃金を圧迫して時間を搾取し、無意味な高給にあずかっていた一分一秒について、「なぜそれが達成されなかったのか」を私に対して詳細に納得させていただくことを大変楽しみにしている。

【引用】

  • そうなると、自然状態において自然法の下にある人間の例と言えば、未開の先住民よりは、アメリカのイギリス植民地に住むエリートということになろう。自分たちの社会が崩壊した後に残された高度文明社会の人間という例を挙げれば、一層適切な例となろう。このような考えをほんの一歩進めれば、次のような見解に到達する。すなわち、自然状態において自然法の下にある人間の例として最も明白な例は、市民的社会に生きている人間、しかも、市民的社会から正当に要求しうるものは何であるかを熟考し、市民的服従が合理的であるのはいかなる条件の下においてであるかを熱慮しているような人間の例である、という見解である。このようにして、人々が地上におけるいかなる共通の優越者にも服従することなく、もっぱら自然法にのみ服従しているような状態として理解される自然状態が、はたして実在したかどうかということは、結局のところ本質的な問題ではなくなるのである。p.302
  • 要するに、事物を専有する唯一の正しい方法は、その人自身の労働によるのである。各人は本性上、自分の身体の排他的所有者であり、したがって自分の身体の働きの、すなわち自分の労働の排他的所有者である。p.308
  • なぜなら、人間が自然法に対して罪を犯したことになるのは、彼がその労働(あるいは労働の生産物の交換)によって専有したものの「大きさ」によるのではなく、「所持物の何かを無益に滅失させる」ことによるのだからである。p.310
  • 「人は自然状態において自分自身の身柄と財産に対する絶対的主人[である]」とも述べている。p.321

【余談】 第6章でジャン=ジャック・ルソーに思想について著述されている。しかし、ルソーのやったことは、私の理解によれば、民衆を動員するために無理な前提条件をおき、それに基づいて革命を正当化する檄文をひねり出したのであって、シュトラウスが言うように整然とした思想活動のようなものではない。引用が正当なのか、第6章からは幾分不安になるものである。

"2025-12-25 19:33:04","2025-12-25 00:00:00","自然権と歴史 (ちくま学芸文庫)","レオシュトラウス","筑摩書房","2013","本",""

リン・ハント『人権を創造する』の感想

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考察

18世紀以降に大西洋両沿岸領域で成立した「人権」観念の歴史。「人権」が何であるのか、直接的に言及するものは誰もおらず、フランス革命の思想家、アメリカ独立戦争の建国の父らが「人権は神によって与えられた生得の権利である」(ジェファソン)、「善悪を識別する判断力を備えた自由行為者が持つものである」(ブラックストーン)など。

人間である以上、それが何であるかは自明(Self-evident)であろうので、それが何であるかは述べなくてよいのである。リン・ハントは同意しないかも知れないが、それが何であるか、これまでの読書を含めて述べる。

  • 【前提】 生得の権利、自然権(Natural rights)とは、物理世界の中にある物理的実体である人間が物理的に成し得ることである。
  • 【主張】 人間が生得に成し得ることとは、1.社会契約によってgive upした物理的に可能な行動をすること、2.発明・発見を隠すことである。
  • 【結論】 人権を守らなければならないのは、その人が1.抵抗権行使によって反撃してくるかもしれない、2.お前の生命を救う知識を教えてくれなくなるかもしれないからである。

リン・ハントがどう考えているかについては今から読む(現在第1章)。共感性は「協力する個体は生き残る」ことから進化的に獲得されたに過ぎず、論理的帰結ではないのではないか。(2026/2/9)

【論評】

リン・ハントは、1.フランス革命期に拷問が禁止された、2.その禁止を含む国家による権利の承認が各人種コミュニティに広がった、3.拷問が禁止される際に、(当時の法廷特殊の社会習慣に依存する形式に導出される形で発生した)共感に訴えかける方法によって拷問禁止の法令(判例)が成立した、の3点によって「人権」が成立した、と論じる。

2.について、その適用の拡大が人種コミュニティを包摂する形式で広がっていったことから考えて、その根源は「報復の可能性の排除」と考えたほうが、より動機を理解しやすい。ある人種のおじさんを拷問すると、そのコミュニティの人々が報復を仕掛けてきて、戦争になるのは歴史上例のたくさんあることであろう。それを避けるためにその領域の支配集団が自然に権利のある「拷問」をgive upすることを選択するのは、コミュニティのメンバーを刺激しないためと考えた方が人間の心理に即していると言えるだろう。このコミュニティのメンバーが拷問されたおじさんの報復を決断するのは「共感」に基づくと言えるかもしれないが、支配集団が拷問をgive upするのを「共感に基づく」というのは無理がある。「支配集団のメンバーが拷問されたらどうするか?報復するだろう」という共感が発動したということならあり得る。

「人権の保障」のある特殊な場合として、「拷問の禁止」「傷つけられる者への共感」と言い換え、この時点の歴史において、カソリック、プロテスタント、ユダヤ人の集団を集団内に包含できたことはこのひとつの歴史の文脈としては正しいかもしれないが、それは特別な場合であって、ジェファソンやブラックストーンはもっと一般的な言明をしていると思われる。

余談であるが、より多くの集団を包摂でき、より大きな集団を形成できれば、より強力な自由経済圏を持つことができ、全員が得をするというのが、経済学の教えるところである。

"2026-02-09 15:45:54","2026-02-11 00:00:00","人権を創造する","リン・ハント","岩波書店","2011","本","320"

イムレ・ラカトシュ『方法の擁護: 科学的研究プログラムの方法論』の感想

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考察

物理学の発展(量子力学の成立)を題材に、科学の発展はいかにして行われるか、の方法論を説明したものである。以下のように発展していく。

  1. 抽象度の低い命題(a.k.a.「事実」、例:「物体の運動はニュートンの運動方程式F=maにしたがう」)が仮説(以降、本説で「初期仮説」とする)として採用され、トマス・クーンのいうパラダイムを形成する。
  2. 通常科学の漸進的発展を経て、やがて初期仮説と矛盾する(実験的)事実(以降、本説で「新事実」という。例:二重スリット実験)が発見される。
  3. 次に、より抽象度の高い命題(例:「物体の運動はシュレーディンガーの波動方程式にしたがう」)が仮説(「新仮説」)として発見され、既知の事実のすべて(もともと初期仮説を支持していたすべての実験的事実および、新事実)が新仮説を支持することが確認される。
  4. 以降、新たに新仮説に矛盾する事実が発見されるまで、新仮説は「正しい」とされ、様々に応用される。

科学はこうして発展していくのである。(人によっては「弁証法的止揚の繰り返しによって」というかもしれない。)

"2024-06-22 11:05:18","2024-06-22 00:00:00","方法の擁護 科学的研究プログラムの方法論","イムレラカトシュ","新曜社","2006","本",""

手嶋豊『医事法入門〔第6版〕 (有斐閣アルマAdvanced)』にコメント

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考察

p.36- 医師と患者の関係「ところで、アメリカ・カナダなどコモンロー諸国においては、医師ー患者関係を信認関係とする見解が承認されている(もっとも、両者の関係の基礎には契約関係が存在するものの、当事者間の具体的義務内容を決するのが不法行為及び信認関係である、と説明されている。Hall, The Legal and Historical Foundations of Patients as Medical Consumers, 96 GEO. L. J. 583 <2008>)」

誤解があるようだが、Hallの論文で試みられているのは、筆者の見るところ、「医療行為を(当時広く行われていた)商業的なサービスの供給として把握することは可能か」と設定された問題の解決であり、結論は「どうやら不可能である」ということである。「商行為としてのサービスの提供」は典型的には理髪店での散髪である。散髪の契約も、診療契約も契約には違いないが、一般に「診療契約」が商事的に解決されないことを論じたにすぎず、「契約ではない」(もしくはではないことに重大な意義がある)ことを主張しているわけではない(米村滋人『医事法講義 第二版』でそのように解説されている)。

「診療契約」にも大小様々な様態があり、胃カメラを施行して検査結果を通知するまでで充足される小さめの契約から、診察、発見された疾患を治療する治療法の選定、執行、治療後の管理、社会への復帰(にあたっての本人の生活管理に必要な情報提供等)まで包括的に義務を課すものまで様々であり、胃カメラの契約は散髪の契約に似ているかも知れないが、診察に始まる一連の診療の契約はむしろ国家に課された憲法に似ているということもあり得ることであり、個別の事情に即して判断される、とはこういうことである。

","","","2026-04-14 12:51:53","","医事法入門〔第6版〕 (有斐閣アルマAdvanced)","手嶋豊","有斐閣","2022","本","416"