著者:告訴・告発人
最終更新:2026年4月28日
医学実践を法的に理解するにあたり、医師を本質主義解釈に全面的に依拠して扱うことは不当であり、修正されるべきである。
医学実践を法的に理解するにあたり、一方の当事者である「医師」は長年本質主義的に解釈[[1]]され、依って内部が隠蔽されまま役割を果たす機能主体であるように扱われることが慣例的に行われてきた。しかし、近年その弊害が各国で顕在化して発見されている。イギリスにおいては多数の被害者を出す刑事事件として問題が表面化しており、現在もその法的手続きが進行中である。日本においても、「直美」問題としては広く報道されているが、その適格性を検証されていない医学指導者、病院管理者を大量に生み出す母地となり、今なお多数の医学不適正実践を発生させていることが懸念される。
法学者は本質的に医学実践における外部者、または潜在的な他方の当事者(患者)であり、その立場において医学の実践を観察し、解釈するのには実際困難である。また、医師は世界最古の職業の一つと呼ばれ、世界的に強い自己凝集性を持ち、通常組織化されたアソシエーションを持っている(アメリカ合衆国においては、他の専門職組織の模範として頻繁に参照される強力なギルド的専門職アソシエーションを備えており、自律的に配下医師の統制・育成・医学の実践における監視を行うことにおいて責任を負っている。)。そうしたところ、法律的に医学の不適正実践を解釈するには、そのアソシエーションの判断を参照することになるため、その健全性を信頼できる限りにおいて、不都合は起こらないのである。Check & Balanceの機能を医師として自ら担っている限りにおいて、つまり、医師自らが自己と他者の十分な理解に基づいて法秩序中のあるべき位置を指定し保持している姿を示している限りにおいて、医師は本質的に医師である。これはもちろん漠然とした理解にとどまるのであるが、これまでのところ、そうであることを信頼して、法学者は医師や医療を理解してきた[研究途上の仮説であり、その後の進展を参照する必要があることに注意せよ。M. ホールの2025年著作の到着待ち(2週間とのこと)]。[[1]]
イギリスにおける医師本質主義の不正義は、病院運営の管理における理事会の不介入として顕在化した。
イアン・パターソンはイギリスの乳腺外科医である(イギリス政府調査委員会の報告書)。
日本における医師本質主義は、その業界における「医師国家試験」合格の崇拝的信頼として直示的に現れている。医師本質主義における「本質」は、日本においては、ペーパーテストの合格で保証されると認識された。大学医学部から国家試験に受験し、合格することで潤沢な金銭的報償を伴う職業上の待遇が事実上保証され、豊かな人生が期待される一方、試験の失敗においては社会的侮蔑と経済的貧困を予期しなければならない大きな落差が側から観察されたとき、試験合格者は社会的特権階級として認識される。その結果、医学部の教育及び国家試験運営の本来の目的である「医学実践者の養成」は忘れられ、試験合格は特権階級への特急切符として認識され、難苦を伴う実践そのものは回避したまま「医師国家試験の合格」のみを追求する集団が発生するに至ったのである。
人々が特権への欲望をその胸のうちに掻き立てるとき、収益のチャンスが生まれる。ゴールドラッシュの狂騒に掻き立てられたアメリカ大陸西部におけるリーバイ=シュトラウスのように、である。砂金掘りが金の出ない瓦礫を掘る鶴嘴を求めたように、本質主義医師志願者たちは「答えられる質問」と「答えられる正解」を求めた。求められたものは与えられるー十分な金銭を積めば、であるが。関連付けられた「そのように質問されたものである」「そのように答えられたものである」の組み合わせが生まれ、それが本来何を意味するか全く理解されないまま、提供された。現に提供されていること、現に享受されていることのみを根拠として、それは正当であると認識された。正当である分け前を自分が与ることが何故当然ではいけないのか?
本質的に医師である以上、一人は一人の医師である。政府から見た時、そこに違いはない。「人口あたり医師数」の数字を信仰して飽くことない役人たちは、「医師30万人計画」の魔術的な響きに抵抗できなかった。そこで実際に何が行われているのかなど、心配する必要はない。彼らは本質的に医師である以上、医療が本質的に実行されるに違いないのである。本質性1つあたりいくらの補助金を濁流のように医科大学の喉から注ぎ込み、金きらの噴流によって実践を窒息させたペーパーワークの錬金術師たちは、滅んだ地方に建った煌びやかな病院に大満足する。そして医科大学は医師を捏造し始めた。